元親と慶次は、二人静かに岩場の上へ腰を下ろす。
そして、元親はもう一度口を開いた。



「戦なんか、嫌いだ」



いや、好きな者など居ないのだろうが。
人がいがみ合い、妬み合い。
そこにあるのは汚れた駆け引きばかりだった。
競い合い、伸ばし合うという考えなどはない。
それが、手には殺戮の道具を握り締めての争いとなれば、尚更好まれるものではない。

目の前で起こるのは命の奪い合い。
それは国の為に刀を振るってくれた部下の命であり。
己も奪うであろう他人の命であり。
その命の向こうには、自分と同じように家族があるのだろう。
奪えば、赤い雫と共に必ず涙も流れていく。
自分の見えないところで、誰かが涙を流し、恨み。
そしてその消え行く命は、人事ではなく。


「死んでしまうかも、しれない」


これはそう、純粋な恐怖だ。
人のものを、命を、奪うこともしたくない、だがだからと言って自分のものを、命を、奪われることもしたくない。
その恐怖と対峙した時、戦に臨む事など出来なくなった。
それ故元親は、武器など手に取った事もなく、この歳まで書物を読み暮らしてきた。

無常にも、身体は大きくなっていく。
だが、考え方は何時まで経っても周りとは相容れないものばかり。

この考え方の所為で、肉親から「姫若子」と皮肉られ、周りから嘲笑を浴びせられた事もある。
不本意なのは確かだったが、この呼び方1つで戦に出なくて良いのであれば。
しかし、元親は嫡男。
必ず、出陣しなくてはならない。

それが、今なのだ。



「…アンタも、俺のことを罵るか?」



話し終え、1つ息を吐き出した元親は、慶次の顔を横目に見遣る。
笑われてもいいのだ。
この御時世、このような考え方をしている者の方がおかしく、甘ったるく、臆病者で。
だが慶次は。

「アンタは、優しいんだね」

「は?」

呆気にとられた声を上げたのは、元親だった。
思わずだらしなく開いた口のまま慶次の顔を見遣れば、目が合った瞬間微笑みにぶつかる。
再び感じる胸の高鳴りに、元親は左胸を押さえる。

「なあ、人に必要なのはなんだと思う?」

「…禅問答か…?」

「俺は、必要なのはアンタみたいに他人を想う心だと思うんだ。…じゃあ戦には、何が必要だと思う?」

矢継ぎ早の質問に、元親は答えることが出来ない。

慶次は、ゆっくりとその場に立ち上がる。
元親の頬を風がなぞり、慶次の着物をゆったりと揺らした。
風になびく髪からはどこか甘い香りがしたのは、きっと気の所為ではないだろう。
必要なもの、と問われ俯いた元親の頭の中を過ぎるのは、なんとも面白味の無いものばかりだった。
巧妙に戦略を練る事の出来る知識、絶対的な力の強さ、そして人を切ることを躊躇わない心の強さ。
どれもありきたりなもので、口に出すことを憚られる。
慶次は暫く何も言わないまま海を眺めて、元親が答えを出しあぐねていることを横目に見て取ると、口を開いた。

「要るのは、命を奪う為の強さじゃない」

聞こえた声に、頭を上げる。
慶次は、両手を胸へと当てて。




「その想いを持って、人を護る強さ…命を賭して護ることのできる、強さなんだって、思うんだ」




元親は、自分の両手を広げ見詰める。
奪う為に戦うのではなく、護る為に戦うということなど、考えた事も。
そして自分のこの考えも、只の臆病な思考だとしか。
戦は、奪い合うものだ。
領土を、金を、民を。
戦い勝利して、自分の領土を広げて行くもの。
だから必要なのは、全てを凌駕する強さだと思った。

しかし慶次は違うと言う。

「奔って、攻めて、欲しいがままに奪って、沢山の犠牲の上に得たものに、価値はあるのかい?」

「…いや…」

「皆を護り、戦い、得たものにこそ、価値はある…違うかな」

「…ああ、分かる…」

分かり過ぎると言っていいほどに。
元親にとって、新しい見解だった。
そして自分が戦に出て行く為に背中を押してくれるだけの「理由」だった。
一領具足によって農作業の合間にも借り出され、桑を持ち田を耕すための手を血に染めなくてはならない領民を、この手で護る。
その後ろにいる女、子ども、老人を護る。
そうして得られるものは国が在ることに何よりも大切な民の命であり、信頼であり。
逃げているだけでは、何一つ出来ないのだ。
元親は広げている掌を、強く、握り締める。

「ただ、護ると言ってもやっぱり…戦は恐いものだ。すぐに強くなんて、なれないのは分かってる」

慶次は、元親の隣へと屈み込む。
確かにそれは、慶次の言う通りなのだ。
元親の憂いは、今の言葉だけでは完全に晴れた訳ではない。
護る為の戦いとはいえ、やはり、胸に恐怖や迷いは残る。
何せ初陣、刀も槍も、何一つ握った事の無い自分が望む、初めての戦。
見透かされたような言葉に、元親は、肩を竦める。

「気休め程度にしか、ならないかもだけどさ」

ぽんと軽く叩かれる背中が、ほんの少し温かい。
ゆっくりと、言葉が紡がれる。





「戦には俺が居るよ。
俺は風だから。
アンタが護る為に戦うというのなら、俺は、何時でもアンタの側にいてあげる。
風が、勝負を分けることがある。
そんな風が、側にいるんだ。
だから、怖くないよ。
風が頬を撫でたなら、それは、俺だって思って」





そして、温かなものに包まれる。

「皆を護る為に、心も、身体も、強くなって。…俺も、助けてあげるから」

気が付けば、元親は慶次の腕の中。
酷く優しく、どこか胸を締め付けられるような。


「他の武士とは違う優しいアンタが…気に入った」


響く声に、視界がくらりと揺れる。
強い胸の高鳴りに思わず、目を閉じて。




ほんの一時共に居ただけなのに、風に、慶次に心を浚われた。




だが同時に、胸の不安や悩みも綺麗に、消える。
自分は、戦える。
ゆっくりと頷いて、暫く、そのまま動かずに、慶次の温もりを感じていた。
慶次が微笑んでいたことを、暖かく甘く香る風に知る。

目を開けると、そこにはもう姿が無い事など、とうに分かっていた事なのだけれど。




「…俺は、長曾我部元親…。…また、会えるよな…慶次」




そういえば、名を伝えていない事を、思い出した。
風に溶ける呟きは、きっと届いたことだろう。