身体の向きを、相手のことを真正面に見ることが出来るよう、変えてみた。
今一状況が飲み込めない。
自分は、誰にも見つからずにここまで来たはずだ。
なのに、何故目の前には人が居るのか。
そもそも、見えるのかとはどう言うことだ。
人なのだから見えるだろう。
しかし、何故こんなに接近するまで気付かなかったのだ。
気配がしなかったからだ。
では何故気配がないのか。
何故。
何故。
何故?
「おーい、ちょっとアンタ。聞こえてんのかい?」
「い、た…痛ェッ!」
必死に思考を巡らせる最中、頬に走る痛みに元親は現実へと呼び戻された。
いや、これが現実なのかはどうかなど、分からない。
しかし目の前には相変わらず、自分の顔を摘む相手が一人。
そう、頬を。
「ちょ、いい加減離せ!痛ェ!」
「聞こえてるんなら、返事くらいしてくれても良いだろ?アンタが全くこっち見ないから悪いんだ」
子供のように口を尖らせそっぽを向く相手の顔をまじまじと見詰めてみる。
姿形は人と変わらず、妙な物はと問われ強いて言うならば、薄い水色の着物に風にたゆたう薄布の羽衣という、男なのに女物を身に纏っているということのみ。
それもまた、違和感なく着こなして。
足下を見れば話に聞く幽霊、と言うものではないことはすぐに分かった。
大体、幽霊に頬など摘まれる訳がない、などとまた考え込む元親の顔を目の前の相手は顔を背けたままチラリと横目で伺う。
「なあ、アンタ…海好きなのか?」
「…は?」
唐突な質問に、またしても元親は間の抜けた声を上げた。
「いや…俺がここに来るようになったのは最近だけど、結構、アンタのこと見るからさ。ちょくちょく来ては海を眺めて、そんで、帰っていくだろ?」
「あ…ああ、そうだな…」
(ということは、俺はコイツにそんなに見られてたのか…情けねェ)
完璧と思ってた脱出に思わぬ失態。
策を講じ、そして弄する事に関しては小さい頃からの積み重ねにより絶対の自信があっただけに、悔しさがこみ上げる。
そんな元親の感情を見抜いてか、肩を竦め長い髪をふわり揺らして。
「気にしなくていいよ。俺も、今みたいに側に寄ったのは初めてだし」
目の前で、花が綻ぶ様な柔らかな笑顔を、其れは見せた。
ドクン、と。
元親は、再度、胸が高なる音を聞く。
(何だ、これ)
胸を手で強く押さえてみる。
それでも今度のそれはすぐには治まらず、ドクドクと、鳴りやまない。
海風に吹かれる相手は、不思議そうにこちらを見るばかりで。
「どうしたんだい?」
伸ばされた手が、肩に触れる。
「な、んでも…何でもねェよ」
「そう?ならいいんだけどな」
何でもないわけがない。
けれど元親の自尊心がそれを口に出すことはさせなかった。
それよりもまずは確認をしなければならない。
逸る鼓動は息を深く吐き出すことで抑え顔を、起こす。
「…アンタ…何者だ?」
絞り出した問い掛けと共に、相手を見据えた。
漸くこちらからした会話のきっかけに、其れは微笑んで。
「名は、慶次」
右手を挙げる。
元親の頬を、暖かな風が撫でた。
あるはずもない桜の花弁が、はらりはらりと宙に舞う。
「波を起こし、草木を揺らし、季節を運ぶ…俺は、風だよ」
慶次の起こす風からふわりと薫る優しい花の香に、まやかし、などという野暮な言葉は、元親の中には既になく。
甘く暖かい風に包まれ、妙な安心感が元親を取り囲んだ。
そんな元親の内心を知ってか知らずか、慶次はゆっくりと口を開く。
「信じるも信じないも、それはアンタの勝手。それでも、これも何かの縁…今日はその顔の憂いの本を、俺に聞かせちゃくれないかい?」
はっと、目を見開く。
変わらずにこちらに向けられるのは笑み。
「海に来る度、妙に考え込んだ様な表情がずっと気になってた。何だか今日は、特別憂えてたしな」
伸ばされた手を自然と握る。
その指先から伝わる体温を、元親は確かに感じた。
「心配になって側に寄ったんだけど…俺のこと見えて良かったよ。これで、話が聞けるからさ」
出逢って半時もしない慶次を見詰める。
初めて喋る人間を心配とは。
お節介だと思う。
図々しくも思う。
けれどゆっくりと握り返された温もりに、そんな感情は消え失せて、人であろうがなかろうがなど、もう、どうでもいいことだった。
「何か、思うことがあるのかい?」
口は自然と開く。
何故か心が、開放される。
「怖いんだ」
それは、ずっと仕舞ってきた言葉。
僅かに声が震え、握る手に、力が篭もる。
それでも慶次は、優しく元親を見詰めて。
日は、僅かに傾いた。
元親の初陣が、もう三日後に迫っていた。