「姫若子」



元親が父親から呼ばれたその名は、いつの間にか城内外から呼ばれ、皮肉られるようになった。
弱い自分。
臆病な自分。
そんな自分のことを嘲弄する者達。
全て、嫌いだった。
城の中で毎日過ごす時間も、元親は、嫌いだった。

だからその日も、誰にも言わず、城を抜け出した。

城を出ることは通常ならば容易ではない。
しかしそこは、毎回立てる綿密な計画のお蔭か、思うよりもすんなりと可能となる。
人目につく馬は使わない。
着物はこそりと仕立てた町人のものへと着替えた。
準備は万端である。
城を出て、向かうのはいつも海。
元親は、自分にはない強さを持つ海が、何よりも好きだった。

海向かうまでには、まず、川を舟で下らなければならない。
しかし幾ら町人へ姿を変えているとはいえ、そこを利用し下るなど、見つけてくれと言わんばかり。
そこで元親の足は、道行く他の人とは違う方向へと向けられる。
(見付かってたまるか)
抜かりなどない。
海への道は既に調べきり、その手に地図など持たずとも駆けていけた。
時折、パキリと木の枝を踏む。
小石を蹴飛ばす。
それでも、真っ直ぐに元親は走った。
(磯の匂いだ)
暫く走り続けると、鼻につく独特の匂い。
急かされる様に足を速めた。
普段ここまで全力で走ることのなかった足は縺れ、転びそうになる。
寸でのところで踏み止まり、また、走り出す。
次第に、視界が開けてきた。
何となく顔をうつ伏せて走り、岩場に付くと軽く飛んでその先端、海へ近い場所へ。
満を持して顔を上げれば、目の前に広がるのは。



焦がれた、海。



眼前に広がる広大な海に、元親の頬は自然と緩む。
「今日は、波が高いな」
顔に掛かる飛沫に、白波が、岩へ叩きつけられていることを知る。
そういえば、風が強いか。
それでも聴こえる波の音が、殊の外、心地良かった。
目を閉じ、大きく潮の香りを吸い込むと、元親の動きが、一度止まる。

(…なんだ…?)

塩に混じり漂うのは、そこに似つかわしくない何処か甘い香り。
顔を起こし、辺りを見渡すべく起こした頭のほぼ真横。
1尺程の距離を空け、此方をじっと見る人物が居た。
一瞬、言葉を失う。

「誰だ、アンタ」

搾り出した声。
視線は逸らさない。
目の前の人物の大きな目が、更に、大きくなって。





「アンタ、俺が見えるのかい?」





嬉しそうに、笑った。
一瞬高鳴る胸の理由など、分からないまま。

元親は、出会った。