その空間はまるで幻のように幻想的。
殺伐とした風景の中に一つだけ着いた色。
前田慶次は、庵の奥にただ1人、物言わず静かに座っていた。
着ている服は着流しに赤い半纏。
髪は婆が結んでくれているのだろう、ゆったりと、風に揺れていた。
抱き締めた身体は確かに暖かく、生きてこの腕の中へと抱き締める事の出来る喜び。
強く強く、今までの時間を埋めるように、その腕へと政宗は力を込めた。
ただ。
慶次から抱き締め返されることは、ない。
困惑するような、不思議そうな、そんな笑みを浮かべるのみ。
それでも、政宗にこの状況は予想できていた。
ただこの腕の中にあることが、幸せだった。
「そのお方は、妙に神妙な顔で、儂ら二人の元へとおいでなすった」
一度慶次の身体を離し、翁と二人、外へ出る。
そういえば、どういう経緯で夫婦が面倒を見ているのか、それすら、政宗は聞いていないことに気付いたから。
翁の話によると、慶次は政宗と別れた直ぐ後に、ここへと訪れたらしい。
そして自分の名は明かすことなく、ただ自分のおかれた状況を話し、ここへと置いて欲しいと頼んだらしい。
真剣な慶次の言葉を、心優しい老夫婦は受け入れた。
「儂らには、子がおりません。ですからこの方が、本当の息子のようで…」
元々人懐こい性格なので、動ける間は二人を気遣い、手伝いもしていた。
色々な話も、面白おかしく話していたところがなんとも慶次らしい。
しかし次第に、出来ない事が一つ増え、二つ増え。
遂には言葉を発する事も、出来なくなった。
「しかし辛そうな顔は一度も、儂らに見せなんだ…。…慶次、は…何時でも笑顔で…」
話す翁の瞳からは、ゆっくりと涙が零れ落ちる。
政宗はそれを見ないように、顔を庵の中の慶次へと戻した。
こちらからの視線には気付かない。
側には小さな相棒である夢吉が、一緒に座って外を眺めていた。
胸を責めるのは何故、自分はその時側に居る事が出来なかったのかという憤り。
それがただただ悔しくてたまらない。
だが感謝すべきは、動けない慶次を見捨てることなく側に居てくれた老夫婦。
政宗は、心の中で静かに二人へと頭を垂れた。
そして見えたのは、慶次の手元の白い紙。
「…あれは…」
「ああ、あれは慶次の宝物です」
「宝、物…?」
ゆっくりと、庵の中へと進む。
慶次は紙を見詰めながら、何か口を動かしている。
覗き込む政宗の目に飛び込んできたのは、文字。
「忘れたくない名だと、毎日、幾度もそれを読んで…」
伊達政宗
広げた紙に書かれた一つの名前。
それは紛れもなく自分の名前。
「自分が恋した、最後の人だと」
無意識に、慶次の身体を抱き締めていた。
強く、強く。
不思議そうにこちらを見遣ることなど構うものか。
伝う涙は止めどなく。
政宗の頬を濡らし、慶次の半纏へと小さな染みを作る。
締め付けられる胸に、息が出来なくなる。
会えなかったこの時間。
幾度も幾度も、繰り返し紙を見詰めたのだろう。
持っていた紙は皺が寄り、折り目は破れ掛かっていた。
そんなにも自分を想い。
呼んで。
それ故、あの夢で出会えたのか。
「馬鹿野郎」
自惚れでもいい。
そんなにも想ってくれているのならば何故、側を離れたのか。
より一層胸を締め付ける悔しさに、くちびるを、強く噛む。
「政宗様、1人でここへときた慶次を責めないでやって下され」
不意に掛けられた声に、慶次を抱き締めたまま政宗が顔を上げた。
「…アンタ、俺の名を…」
「分かりますとも、伊達にこの歳まで生きとりゃせんです」
翁は、穏やかな笑みを湛えこちらを見ている。
「責めるな、とは…」
「慶次は…何も出来なくなる自分が貴方様に迷惑を掛ける事、そして、…いつか自分が、もしかしたら、貴方様を想えなくなる時がくるかもしれない事が何よりも辛いと、申しておりました」
「…それで、城を出たと…?」
「それもこれも、全て忘れても名を繰り返すほどに愛しい、貴方様を想ってでしょう…。分かってやって下され…いえ、貴方様なら…分かるはず」
嗚呼。
痛いほどに分かるからこそ、政宗の隻眼からは、涙が止まらない。
前田慶次とは、そういう男なのだ。
何時如何なる時も、相手を想う。
恋しい相手の為に、身を挺して。
だからこそ、だからこそ。
だがもう、良いのだ。
「All right,俺をずっと、そして今もちゃんと想ってくれているじゃねェか。妙な心配…してんじゃねェよ…」
優しく優しく、慶次の身体を再度抱き締める。
そうして僅か動いた腕が、政宗の服を掴んだ。
「ああそうだ、慶次…I love youには、Me too…って、言うんだぜ?ちゃんと、教えてやるからな」
漸く政宗は、笑みを浮かべ。
腕の中の慶次は微笑んで、政宗の名を一度、呼んだ気がした。
例え其れが錯覚だとしても、温かな身体の事実は変わらない。
「さあ、奥州へ帰るぞ…慶次」
政宗の屋敷には、小さな庵が造られた。
どんなに忙しくとも、政宗は必ず一日に三度は足を運び。
こちらを見遣り微笑む慶次を抱き締める。
それはもう本能的なもので、誰か分からずとも、人が来ると微笑むらしいが。
庵には、政宗と小十郎、城下へと招かれた老夫婦、そして極限られた女中しか入ることはない。
時折、外の空気を吸わせる為に開かれる小窓から、ゆっくりと顔を覗かせる帰って来た春に、皆喜び、挙って手を振った。
そのとき空っぽになる城の警備に、度々、小十郎の怒号が響くのだとか。
名を書いていた紙が破れてしまう前に、その紙を見ながら、二人で一枚の紙に新しく文字を書いた。
『伊達政宗』
そして。
『前田慶次』
それが大切な名だということは深く刻まれているらしく。
新しい紙を、慶次が肌身離すことはない。
毎日その名が互いのものだと言う事を覚え、毎日それを忘れていく。
それでも政宗が教える度に、慶次は嬉しそうに微笑む。
政宗はそれで、構わない。
慶次が名を大切だと想ってくれる事が、何よりも幸せで、何よりも、愛しいから。
だから身体を抱き締めて、何度も何度も、囁くのだ。
「I love you,慶次…forever」
「……み…とぅ……」
いつしか季節は春となり。
雪は溶け、桜の花は、綻び始めていた。
君を想う。
永久に想う。
それは記憶ではなく。
この胸の奥深く。
決して消えぬ、恋心。
=終=